「まえがき」抜粋

『言葉の果ての写真家たち』が刊行されて、1週間ほど経ちました。おかげさまで、感想の言葉もいくつかいただき、拙著を読む時間を作っていただいたことに、照れや恐縮と同時に、うれしさもあります。

書かれたものは、読まれてはじめて成立する、と思っていましたが、自分の書いたものに対して、こうしたいくつかの感想をいただくと、その思いをより強く実感します。それはもちろん、写真にも共通していえることですが、ジャンルを問わず作品というものは他者の目や耳といった五感に触れることで、完成されるものなのかもしれません。

今回は「まえがき」の一部を抜粋して、『言葉の果ての写真家たち』という本の一端を知っていただければと思います。

●はじめに―写真表現の分水嶺、森山大道『写真よさようなら』を中心にして

本書のテーマになっているのは、写真と言葉である。具体的には、写真家自身から発せられた言葉とその写真、そして彼らがレンズを通して対峙した時代を背景としている。

ここで取り上げる五人の写真家が書いた言葉や発言を踏まえたうえで、彼らがどのように写真行為を実践し、作品を制作してきたかについて、また、写真という鏡を通して彼らが見てきた時代背景を念頭に置きながら、彼らの写真作品について考察を試みている。

くしくも五人の写真家のうち、新倉孝雄、森永純、中平卓馬、荒木経惟の四人はほぼ同世代である。生まれた順番で並べると、一九三七年生まれの森永、三八年生まれの中平、三九年生まれの新倉、そして四〇年生まれの荒木となる。残り一人の原芳市は四七年生まれである。

世代という基準で安易に人物をくくって語るのはやや乱暴だが、原を除く四人は撮る写真のスタイルは違えど、考え方、時代との向き合い方にどこか共通するものがある。そして原の世代になると、彼ら四人とは異なる時代認識で写真と向き合っているように見える。もちろん、原一人をこの世代の代表として位置づけるのは短絡的だが、代表的な写真家の一人であることは間違いない。

また、団塊世代の原を除く四人は、幼少期に戦争を体験している。敗戦のときに森永は八歳、中平が七歳、新倉が六歳、荒木は五歳だった。森永は八歳で、荒木は五歳と、幼少時における三歳差は記憶や体験の面でもかなりの違いがあるように思われる。個人差もあるが体験したことの意味や影響の度合いは、年齢によってそれぞれ異なるだろう。

こうした背景を踏まえて、カメラを持った彼らがどのように時代と向き合い、写真表現をおこなってきたかを考察しながら、写真家として何を見つめてきたのかを読み解こうと試みていく。

その前に、第二次世界大戦後の日本における写真の状況について概観したい。日中戦争以降、日本は太平洋戦争が終結するまでの約十五年間、多くの国々を相手に戦争をおこなってきた。敗戦を迎え、疲弊しきった国民は安堵し、戦争を指導した責任者たちは国際裁判で裁かれることになった。

物心両面で甚大な被害を受けたが、人々は敗戦後の新しい生活に向かってそれぞれ動きだし、そうした時勢のなかで雑誌の創刊や復刊も相次いだ。グラフ誌(「世界画報」〔世界画報社〕)やカメラ雑誌(「カメラ」〔アルス〕)など、日本の雑誌はもちろんのこと、「ライフ」「ルック」「ハーパース・バザー」「ヴォーグ」といったアメリカのグラフ誌やファッション誌も輸入され、焼け跡から徐々に復興していく日本に文化的な面で影響を与えた。

特にジャーナリズムの分野で、海外(特にアメリカ)のジャーナル誌に影響を受け、日本でも同様の雑誌を作るべく行動に出た人物がいた。名取洋之助である。  ドイツへの留学経験がある名取は同地でライカを手にして、ジャーナリストとしてまずドイツで活動を始めた。その後ナチスの台頭により、人種差別的政策がおこなわれたことでやむなく日本に帰国。だが、ドイツでの経験をもとに日本での新たなグラフジャーナリズムを画策し、「光画」のメンバーだった伊奈信男や木村伊兵衛らに声をかけ、一九三三年に日本工房を設立した。設立して間もなく、諸事情から名取だけを残して伊奈や木村は抜けたが、三四年にグラフ雑誌「NIPPON」を日本工房から創刊する。

日本の伝統文化を海外に向けてアピールする雑誌として「NIPPON」はその存在を示した。のちに名取は陸軍や外務省に後援を請い、日本工房は戦時下の宣伝活動を担うようになる。三一年の満州事変以降、太平洋戦争も間近に迫るこの時期、政府は宣伝と情報の発信の重要性を認識し、四〇年に情報局を発足、戦時下の情報規制を本格化させていく。そうした情勢のなか、名取は政府の要請により写真を活用して戦争宣伝活動に協力していく。

一九三七年七月、日中戦争をめぐり、アメリカの雑誌「ライフ」が日本軍による犯罪行為と中国の被害の惨状を写真で伝えたのに対抗し、日本は写真ジャーナリズムという名のもとにプロパガンダを展開しようとした。日本軍は、そこで名取を日本の統治下にあった上海へ送り、写真通信社プレス・ユニオン・フォトサービスを設立させ、海外向けに日本統治を正当化する記事を欧米へ配信させた。また「SHANHAI」「CANTON」「華南画報」(いずれも日本工房)などのグラフ誌を刊行し、「反日宣伝に対抗するための対外宣伝を担っていた」(白山眞理『〈報道写真〉と戦争―一九三〇―一九六〇』吉川弘文館、二〇一四年)。

三九年、日本工房は国際報道工芸と社名を変更し、軍部との関係をより密にしていった。  第二次世界大戦の終結後、軍部の解体によって名取は一時的に仕事を失った。しかし名取は日本版「ライフ」を作るべく、当時外国通信社のエージェント業務をおこなっていたサン・ニュース・フォト社にグラフ誌の創刊を提案し、一九四七年に「週刊サンニュース」を刊行する。同誌は四九年に廃刊になるが、名取はすぐさまその翌年に岩波書店が刊行した「岩波写真文庫」の企画・編集に携わる。

「岩波写真文庫」はテーマ別の写真集のシリーズで、一つのテーマについて写真を多用してわかりやすく解説したものである。観光ガイドブックとして利用できる巻もあったことから、好評を博した。五八年まで刊行されたが、このシリーズに携わった写真家のなかに長野重一と東松照明がいた。ともにスタッフとして誌面づくりに参加したが、この二人が参加していた事実を現在の時点から振り返ると、戦後の写真表現の一つの指針を示しているように見える。

—–●

アマゾン amazonでの商品案内】

青弓社での書籍案内】