追悼 森永純さん

2018年4月5日、森永純さんが亡くなった。ここ最近、体調が優れないことは話には聞いていたので訃報を耳にしたとき大きな衝撃はなかったが、動揺する気持ちを止めることは出来なかった。

私はそれほど森永さんと親しくさせていただいたわけではなかった。晩年のわずかな時間に接点を持った程度である。それでも、得がたい時間であったことには変わりない。森永さんとの出会いがあったからこそ、写真家・森永純について論考する機会を得て、写真を見て思考することをより深めることができた。

森永さんについて書いた文章は拙著『言葉の果ての写真家たち』(青弓社)に収録されているが、この論考は本書のために書き下ろした。この本では5人の写真家を取り上げ、写真家たちの発言や書き残した言葉を糸口にして、写真作品の読み解きを試みている。他に書き下ろしで取り上げた写真家は中平卓馬と荒木経惟だが、正直なことを言えば、この2人に比べたとき、森永純はそれほど有名とは言い難い。もちろん、作品の質と知名度は比例しない。森永さんの写真をこの2人と対置することで、その重要性が浮き彫りになるのではないかと考え、書いてみた。

その前段階として、森永さんから直接お話しを聞く機会を設けた。2015年2月、『日本写真年鑑2015』に掲載する原稿として、森永純インタビューを予定していた。前年の2014年に久しぶりの写真集『WAVE 波』(かぜたび舎)が刊行され、その写真集を中心にしたインタビューであった。無論、聞きたいことは『波』だけではなかった。手元にある可能な限りの資料をもって、私は指定された場所へ向かった。

待ち合わせとなる駅の改札口に予定よりやや早い時間に到着した。しばらくすると『写真年鑑』の編集長であるKさんが現れた。挨拶を済ますと「あれ、森永さんだよね」というので、Kさんが見ている方へ視線を向けた。車椅子に乗った男性と後ろに夫人らしき女性がハンドルを持っていた。私が森永さんとお会いするのは、この日が初めてであった。だが、Kさんはこれまで仕事を通して何度か会っている。たぶん、Kさんは初めて車椅子に座る森永さんの姿を確認したのかもしれない。

近寄って声を掛けると、やはり森永さんご本人であった。早速、ご夫人の誘導で近くの喫茶店へ行き、お話しを聞くこととなった。体の方はあまり芳しくない様子だったが、お話しを聞く限り、こちらの質問に対してしっかり答えてくれた。長時間の拘束は体にさわるので、予め用意した質問項目に沿って進めていたが、森永さんがニューヨークに滞在していたときに知り合った映像作家のジャック・スミスについての質問も含まれていた。私がジャック・スミスの名前を口にすると、

「ジャック・スミスをご存知ですか!?」

と、うれしそうな声で返事をされた。

「アンダーグラウンド・フィルム界で伝説的な存在ですが、ニューヨーク滞在時にお会いしたことがあるとか……」

「そうです。あなたみたいな若い方がジャック・スミスを知っているなんて、うれしいですね」

これまでと声のトーンが変わり、嬉々として答えてくれた。意外なところで大きなリアクションがあり、インタビューの展開は読めないなとつくづく感じた。と同時に、森永さんの人柄に触れた瞬間でもあった。

余談だが、後日、御茶ノ水にあるギャラリー・バウハウスで『波』の写真展が開催され、そのトークイベントに参加した。そのとき、私の隣に座っていた人がジャック・スミスについて尋ねたとき、森永さんが「そういえば、髙橋さんはどちらにいますか?」と言い出し、「ここです」と手を上げたときは、ちょっと照れた。ちなみにその隣に座っていた人は、写真家の薄井一議さんだった。

『写真年鑑』のインタビューをまとめた後、自著に収める原稿の執筆に取り掛かった。写真集などの資料、森永さんの談話、それらの経験から得たことを元に想像力を加味し、自らの観点で写真家・森永純に迫った。作品を読み解くにあたり、音楽からブライアン・イーノ、文学から大岡昇平の『野火』を引用し、やや牽強付会かなと我ながら思ったが、初めての著作だし、これくらいのムチャ振りもありだろうと居直り、キーボードを叩いた。ある程度、方向性を決めてから書き始めたが、思いの他スムーズに初校は書き上がった。やはり、直接お会いして話を聞いたことが大きかった。

原稿校正のやりとりをしている中で、そろそろ掲載する図版について相談しましょうと、担当者から提案された。本書で取り上げた森永さん、新倉孝雄さん、原芳市さんについては、自分から掲載の許可を依頼することになった。森永さんのご自宅へ電話するのはインタビュー以来で、1年以上が経過していた。果たして自分のことを覚えているだろうかと懸念しつつ、携帯電話から流れる呼び出し音を耳にしていた。

ご夫人が出られ、自分の名前を名乗り、要件を伝えると、しばらくの間の後、森永さんが出られた。

「ご無沙汰しています、髙橋です」

「えっと、どちらの髙橋さんですか? 髙橋という苗字の知り合いがたくさんいますので」

こういうときほどそんな自分を恨む。

そこで「あの、ジャック・スミスについて尋ねた髙橋です」と言うと、

「あ、あの髙橋さんですか!」

と、どの髙橋かすぐに理解を得た。意外なところでジャック・スミスに救われた。

早速要件を切り出した。自著を出すこと、その中で森永さんについて書かせていただくこと、それにあたって作品を図版として掲載したいので、その許可と原稿を貸していただきたいこと……。

「ええ、いいですよ。ところでどの作品ですか?」

「『河』と『波』です」

「そうですか。で、『河』と『波』からどの写真にしますか?」

さすがにうまく答えられなかった。

「こちらで選んでよいですか?」

お願いしますと返事をして、電話を終えた。

通りのよいハリのある声だった。だが、これが最後の会話となった。

紆余曲折を経て本が無事刊行され、森永さん宛てに出版社から献本として送られたことを担当者から聞いた。長い間プリントを借りていたこともあり、お礼を述べようと電話をしたが、出られなかった。ひとまずはプリントを返却する際に、手紙も添えてお礼を述べた。その後人づてに体調が思わしくないことを聞き、心配しつつも自分に何ができるわけもないので、静観するしかなかった。

自著を刊行後、それまでのツケを返すように仕事や生活に忙殺され、自分が本を出したことを忘れそうなときもあった。そうこうしているうちに刊行から1年経過し、そして森永さんの訃報に接した。友人の口からその事実を耳にして電話を切った後、虚脱感が全身を支配した。結局、森永さんから自分の書いた文章について感想を聞くことが出来ずじまいとなった。だが、それ以上に森永純という写真家を失ったことが、大きな損失だった。しかし、こればかりは自然の摂理であり、抗うことはできない。

とはいえ、事物として写真は残っていく。森永さんの作品名に倣って言えば「瞬間の記念碑(モーメント・モニュメント)」として具体性をもったイメージはその形を保ち続ける。森永さんは写真が「写真」として独立する何ものかであることを目指した。森永純という人を失っても、森永純の写真は失われていない。写真集となった『河』と『波』を見ながら、森永さんが求めた「写真」という物質の存在について改めて思いを馳せた。

「新潮」10月号にエッセイ掲載

久々の更新です。

7日発売の「新潮」10月号にエッセイが掲載されています。「『言葉の果ての写真家たち』刊行によせて」と題して、あとがきのあとがき的な内容になっています。

今回、ひょんなことから原稿の提案をいただき、掲載することになりました。書店で見かけましたら、お手に取っていただけると幸いです。

目次です。

安部ねりさん(安部公房の娘)がクリスチャン・マークレーについて書いています。自分の名前がマークレーと併載されるとは、予想だにもしませんでした。

原芳市さんの展示とトークイベント

『言葉の果ての写真家たち』で取り上げました原芳市さんが、中目黒にありますギャラリー「ポエティックスケープ」で5月10日から展示を行います。あわせて写真集も刊行されます。

タイトルは「エロスの刻印」。珍しくカラーになりますが、この作品はある種いわくつきの作品と言えるかもしれません。

20数年前、ある出版社から写真集を刊行する予定でポジフィルムを預けていたところ、ある日訪ねてみたら、事務所がもぬけの殻になっていたという。その出版社が倒産していた。

夜逃げ同然で事務所にあったモノがすべてなくなったわけだが、その中に先述したポジフィルムも含まれていた。

幸いプリントは手元にあり、今回の展示はそのプリントを元にして、デジタル化し、新たな原稿を元にインクジェットプリントで作り直したそうです。

写真集はすでに拝見しましたが、展示も楽しみです。

そして、会期中の20日(土)にトークイベントを予定していますが、原さんの相手役として参加することになりました。

お時間ございましたら、ぜひお越しください。

ポエティックスケープ HP →http://www.poetic-scape.com

ブックファースト新宿店にて

新宿の西口にあるブックファースト新宿店で、手書きのポップを置かせて貰いました。

この書店はよく行きますが、たまたま担当の方がいらしたので、声を掛けて挨拶しました。話をしていくうちに、手書きのポップを提案されたので、恥ずかしながら、書かせていただきました。担当のMさん、ありがとうございました。

新宿のブックファーストに寄った際に、冷やかしてください。

向かって左に森山大道さんと鈴木一誌さんによる『絶対平面都市』があります。ちなみに鈴木さんには推薦の言葉をいただき、そのポップもあわせて棚に付けられています。恐縮です。

ついでに書くと、『写真をアートにした男』を挟んで置いてる『東京は秋』は、荒木さんの本の中で個人的には好きな1冊です。ちなみに『言葉の果て〜』で荒木さんを取り上げていますが、『東京は秋』については、触れていません。。

「まえがき」抜粋

『言葉の果ての写真家たち』が刊行されて、1週間ほど経ちました。おかげさまで、感想の言葉もいくつかいただき、拙著を読む時間を作っていただいたことに、照れや恐縮と同時に、うれしさもあります。

書かれたものは、読まれてはじめて成立する、と思っていましたが、自分の書いたものに対して、こうしたいくつかの感想をいただくと、その思いをより強く実感します。それはもちろん、写真にも共通していえることですが、ジャンルを問わず作品というものは他者の目や耳といった五感に触れることで、完成されるものなのかもしれません。

今回は「まえがき」の一部を抜粋して、『言葉の果ての写真家たち』という本の一端を知っていただければと思います。

●はじめに―写真表現の分水嶺、森山大道『写真よさようなら』を中心にして

本書のテーマになっているのは、写真と言葉である。具体的には、写真家自身から発せられた言葉とその写真、そして彼らがレンズを通して対峙した時代を背景としている。

ここで取り上げる五人の写真家が書いた言葉や発言を踏まえたうえで、彼らがどのように写真行為を実践し、作品を制作してきたかについて、また、写真という鏡を通して彼らが見てきた時代背景を念頭に置きながら、彼らの写真作品について考察を試みている。

くしくも五人の写真家のうち、新倉孝雄、森永純、中平卓馬、荒木経惟の四人はほぼ同世代である。生まれた順番で並べると、一九三七年生まれの森永、三八年生まれの中平、三九年生まれの新倉、そして四〇年生まれの荒木となる。残り一人の原芳市は四七年生まれである。

世代という基準で安易に人物をくくって語るのはやや乱暴だが、原を除く四人は撮る写真のスタイルは違えど、考え方、時代との向き合い方にどこか共通するものがある。そして原の世代になると、彼ら四人とは異なる時代認識で写真と向き合っているように見える。もちろん、原一人をこの世代の代表として位置づけるのは短絡的だが、代表的な写真家の一人であることは間違いない。

また、団塊世代の原を除く四人は、幼少期に戦争を体験している。敗戦のときに森永は八歳、中平が七歳、新倉が六歳、荒木は五歳だった。森永は八歳で、荒木は五歳と、幼少時における三歳差は記憶や体験の面でもかなりの違いがあるように思われる。個人差もあるが体験したことの意味や影響の度合いは、年齢によってそれぞれ異なるだろう。

こうした背景を踏まえて、カメラを持った彼らがどのように時代と向き合い、写真表現をおこなってきたかを考察しながら、写真家として何を見つめてきたのかを読み解こうと試みていく。

その前に、第二次世界大戦後の日本における写真の状況について概観したい。日中戦争以降、日本は太平洋戦争が終結するまでの約十五年間、多くの国々を相手に戦争をおこなってきた。敗戦を迎え、疲弊しきった国民は安堵し、戦争を指導した責任者たちは国際裁判で裁かれることになった。

物心両面で甚大な被害を受けたが、人々は敗戦後の新しい生活に向かってそれぞれ動きだし、そうした時勢のなかで雑誌の創刊や復刊も相次いだ。グラフ誌(「世界画報」〔世界画報社〕)やカメラ雑誌(「カメラ」〔アルス〕)など、日本の雑誌はもちろんのこと、「ライフ」「ルック」「ハーパース・バザー」「ヴォーグ」といったアメリカのグラフ誌やファッション誌も輸入され、焼け跡から徐々に復興していく日本に文化的な面で影響を与えた。

特にジャーナリズムの分野で、海外(特にアメリカ)のジャーナル誌に影響を受け、日本でも同様の雑誌を作るべく行動に出た人物がいた。名取洋之助である。  ドイツへの留学経験がある名取は同地でライカを手にして、ジャーナリストとしてまずドイツで活動を始めた。その後ナチスの台頭により、人種差別的政策がおこなわれたことでやむなく日本に帰国。だが、ドイツでの経験をもとに日本での新たなグラフジャーナリズムを画策し、「光画」のメンバーだった伊奈信男や木村伊兵衛らに声をかけ、一九三三年に日本工房を設立した。設立して間もなく、諸事情から名取だけを残して伊奈や木村は抜けたが、三四年にグラフ雑誌「NIPPON」を日本工房から創刊する。

日本の伝統文化を海外に向けてアピールする雑誌として「NIPPON」はその存在を示した。のちに名取は陸軍や外務省に後援を請い、日本工房は戦時下の宣伝活動を担うようになる。三一年の満州事変以降、太平洋戦争も間近に迫るこの時期、政府は宣伝と情報の発信の重要性を認識し、四〇年に情報局を発足、戦時下の情報規制を本格化させていく。そうした情勢のなか、名取は政府の要請により写真を活用して戦争宣伝活動に協力していく。

一九三七年七月、日中戦争をめぐり、アメリカの雑誌「ライフ」が日本軍による犯罪行為と中国の被害の惨状を写真で伝えたのに対抗し、日本は写真ジャーナリズムという名のもとにプロパガンダを展開しようとした。日本軍は、そこで名取を日本の統治下にあった上海へ送り、写真通信社プレス・ユニオン・フォトサービスを設立させ、海外向けに日本統治を正当化する記事を欧米へ配信させた。また「SHANHAI」「CANTON」「華南画報」(いずれも日本工房)などのグラフ誌を刊行し、「反日宣伝に対抗するための対外宣伝を担っていた」(白山眞理『〈報道写真〉と戦争―一九三〇―一九六〇』吉川弘文館、二〇一四年)。

三九年、日本工房は国際報道工芸と社名を変更し、軍部との関係をより密にしていった。  第二次世界大戦の終結後、軍部の解体によって名取は一時的に仕事を失った。しかし名取は日本版「ライフ」を作るべく、当時外国通信社のエージェント業務をおこなっていたサン・ニュース・フォト社にグラフ誌の創刊を提案し、一九四七年に「週刊サンニュース」を刊行する。同誌は四九年に廃刊になるが、名取はすぐさまその翌年に岩波書店が刊行した「岩波写真文庫」の企画・編集に携わる。

「岩波写真文庫」はテーマ別の写真集のシリーズで、一つのテーマについて写真を多用してわかりやすく解説したものである。観光ガイドブックとして利用できる巻もあったことから、好評を博した。五八年まで刊行されたが、このシリーズに携わった写真家のなかに長野重一と東松照明がいた。ともにスタッフとして誌面づくりに参加したが、この二人が参加していた事実を現在の時点から振り返ると、戦後の写真表現の一つの指針を示しているように見える。

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青弓社での書籍案内】

『言葉の果ての写真家たち』出来ました

久しく更新していませんでしたが、ようやく『言葉の果ての写真家たち 一九六〇ー九〇年代の写真表現』が出来ました。

ネット書店ではすでに扱っているようです。リアル書店では来週以降に並ぶ感じでしょうか…。ネット検索もしくはお手に取っていただけると幸いです。

アマゾン amazon

青弓社での紹介

あと、新聞の三八広告(というみたいです)にも掲載されています。

よろしくお願い致します。

※カバーです。原芳市さんの写真を使用しています。『光あるうちに』(蒼穹舎)に掲載されています。デザインは伊勢功治さんになります。

※新聞の三八広告です。青弓社のツイッターからの転載です。「中平卓馬ら〜」となっていますね。しかし、自分の名前と中平さんの名前が並ぶとは、恐縮です…。

まえがきのまえがき

このHPで『言葉の果ての写真家たち』(青弓社刊)から原稿の一部を抜粋し、本書を紹介する前に、この本が刊行されるまでの経緯について書いてみたいと思います。

まず、私が写真について文章を書くことになったのは、偶然でありました。

初めて写真もしくは写真家を主題にして書いた文章は、『言葉の果ての写真家たち』にも収録されている、新倉孝雄さんについて書いた「刹那と邂逅する傍観者」になります。この原稿は元々、新倉さんへ宛てた手紙でした。新倉さんが自著『私の写真術 コンポラ写真ってなに?』(青弓社)が刊行され、その出版記念パーティーの案内を送っていただきました。ですが、その日程と都合があわず、返信用のハガキに記載された「欠席」の文字に丸を囲み、投函しました。

しかし、このままでは気持ちが落ち着かなかったので、『私の写真術』を購入し、読み終えると、新倉さんへ出席できなかったことへのお詫びと、本の感想をしたためました。結果、400字詰め原稿用紙にして40枚程度の文字量になってしまいました。自分でもまさか、ここまで書くとは思っていなかったのですが、書いていくうちに文字が増えていった、というのが振り返っての実感です。

こんなに長い手紙になってしまい、新倉さんは迷惑に思わないだろうかと、気になりましたが、自分で持っていても仕方ないので、迷惑に思われてもいいや、という気持ちで送りました。後日、新倉さんからお礼のお手紙とポストカードをいただき、逆に恐縮する次第でした。

私と新倉さんの出会いは、私が新倉さんの写真展の案内ハガキを作ったことがはじまりになります。多分、2002年頃だと記憶します。現在は新宿一丁目にあるギャラリー・PLACE Mがまだ四谷四丁目にある頃で、蒼穹舎がギャラリー内に併設(というか入っていた)されていた頃のことです。展示された写真は新倉さんの写真集『NEW YORK』が刊行されたタイミングということもあり、同書に掲載された写真から構成されていました。並べたのは蒼穹舎の大田通貴さん。このときのことは妙に覚えています。

そうした縁から新倉さんと面識を持つようになったわけですが、この手紙をきっかけにして、親しくさせていただくようになりました。

しばらくして、この手紙をこのままにしておくが、もったいないような気になってきました。文体を直し、最後を書き足して、ブックデザイナー・鈴木一誌さんの事務所へ送りました。なぜ鈴木デザイン事務所に送ったかというと、当時、写真の会の事務局としての窓口も兼ねていたからです。

鈴木一誌さんとは、私が参加していた瀬戸正人さんの写真ワークショップでゲストとして参加したときに面識を得ました。デザイナーを目指していた私は、鈴木さんにお願いして、少しだけ事務所でお手伝いをしたことがありましたが、あえなく挫折。その以来連絡をしていませんでした。これを機に、不在の非を伝えることも含め、新倉さん宛の手紙を書き直し、送りました。

結果、この手紙は「刹那と邂逅する傍観者」という(やや)仰々しいタイトルをつけて、写真の会会報58号に掲載されることになりました。あわせて、新倉孝雄さんのロングインタビューも掲載され、その取材の場にも立ち会うことになります。その時、同席された方が、当時会員でやはりブックデザイナーの伊勢功治さんであり、のちに『言葉の果ての写真家たち』を刊行するにあたり、協力していただくことになるわけです。

会報58号が発行されたのは2006年3月。すでに11年前のことになります。

『言葉の果ての写真家たち』

このウェブサイトは髙橋義隆の著作『言葉の果ての写真家たち 一九六〇年から九〇年代の写真表現』を案内するHPになります。3月15日に青弓社から刊行される予定です。本書は新倉孝雄、森永純、中平卓馬、荒木経惟、原芳市といった5人の写真家を取り上げ、彼らが書いた言葉、発言を主題として、どのような写真表現へと昇華したかを、自分なりに読み解いてみました。

今後、このHPにて本書の一部を抜粋して紹介していくと同時に、本書に掲載されていない他の原稿も掲載していく予定です。

『言葉の果ての写真家たち 一九六〇年から九〇年代の写真表現』青弓社刊 2017年3月15日発売予定

http://www.seikyusha.co.jp/wp/books/isbn978-4-7872-7399-4